朝日新聞デジタル 157.8K フォロワー ガザ空爆で死亡の妊婦から取り出された赤ちゃん、5日後に亡くなる 朝日新聞社 によるストーリー • 11 時間

パレスチナ自治区ガザ南部ラファの病院で2024年4月20日イスラエル軍の攻撃で母親が殺害された後、子宮から取り出されたパレスチナ人の新生児=ロイター© 朝日新聞社

 パレスチナ自治区ガザへの空爆で死亡した妊婦のおなかから助け出された赤ちゃんについて、AP通信は26日、その後に死亡したと報じた。保育器の中に入っていたが、健康状態が悪化し、助からなかったという。

【写真】母親が殺害された後に取り上げられたパレスチナ人の女児

 ガザ最南部のラファでは20日空爆によって妊娠30週だった妊婦のサブリーン・サカニさんが夫や4歳の娘とともに死亡。医療従事者がサカニさんに帝王切開を行い、女の子の胎児を取り出した。各国のメディアで報道され、注目を集めていた。

 サカニさんの親族がAPに語ったところによると、出生後に保育器に入れられたが、5日後に死亡した。父親の隣に埋葬されたという。

 ガザの保健当局によると、昨年10月の軍事衝突開始以降、ガザでは既に3万4千人超が死亡した。うち1万4千人以上が子どもだという。

双極性障害(そううつ病)

双極性障害(そううつ病)とは、気分が高揚する「躁状態」と気分が落ち込む「うつ状態」が繰り返される精神疾患です。躁状態では、ハイテンションで活動的になり、眠らなくても活発に活動したり、次々にアイデアが浮かんだり、大きな買い物やギャンブルなどで散財したりします。一方、うつ状態では、心も体もエネルギー切れのような状態となり、ネガティブな気分が永遠に続く気がします。
 
双極性障害にはⅠ型とⅡ型の2つのタイプがあり、日常生活や仕事に大きな影響を及ぼす激しい躁状態があればⅠ型と診断されます。一方、周囲から見ると普段とは違うことがわかっても、日常生活や仕事にそれほど支障をきたさない軽躁状態の場合はⅡ型と診断されます。
 
双極性障害の原因は、遺伝的な体質により神経伝達物質の機能が変化することだと考えられていますが、まだはっきりとメカニズムが解明されているわけではありません。ストレスが発症のきっかけとなることがありますが、直接の原因ではありません。
 
双極性障害は再発を繰り返しやすい病気ですが、適切な治療を継続すれば症状を抑えて普通の生活を送ることができます。再発しないようにするためには規則正しい生活を送るなどの注意をしながら、多くの場合、長期にわたって薬を飲み続ける必要があります。
 
これは情報提供のみを目的としています。医学的なアドバイスや診断については、専門家にご相談ください。

BANG Showbiz Japan 12.8K フォロワー セレーナ・ゴメス、双極性障害と診断され「気持ちが楽になった」と告白 BANG Showbiz によるストーリー • 1 日 • 読み終わるまで 1 分

セレーナ・ゴメス、双極性障害と診断され「気持ちが楽になった」と告白© BANG Showbiz Japan 提供

セレーナ・ゴメス(31)は、双極性障害と診断されたことで「気持ちが楽になった」という。2020年に同障害を公表していたセレーナが当時の心境を振り返った。

ニューヨークで開催されたTIME100サミットで、セレーナはこう説明している。「混乱するようなことばかりが起きていた」「やっと答えがわかると、『ああ、私にはこんな問題があるんだ』というふうには思わなかった。自分の心の中で何が起きているのかを知り、理解することで気持ちが楽になったの」

セレーナは、自分の体験談を他の人々と分かち合うなど、この病気への様々な対処法を見つけたそうで、「少しでも分かち合いを始めると、自分がどれだけ孤独ではないか、そして私たちの多くが異なるよりも、どれだけ似ているかに気づくのよ」と話している。

昨年セレーナは、音楽プロデューサーのベニー・ブランコ(36)と交際していることを公表し、ある関係者はその後、セレーナがベニーといると「安心できる」と『エンターテイメント・トゥナイト』に明かしていた。「ベニーは素晴らしいコミュニケーションスキルがあって、セレーナに対して正直でオープンな姿勢で、彼女の話に耳を傾けます」「ベニーは礼儀正しいし遊び人でもなく、注目や名声のために彼女と付き合うのでもありません。セレーナはそれを見抜いていて、彼のことを本当に信頼しています」

これまでにジャスティン・ビーバーやザ・ウィークエンドらと交際してきたセレーナは、「ベニーの潜在的な動機を疑うことなく、最もありのままの自分でいられる」と感じているようだ。関係者はさらに、同関係者は、「セレーナが誰かを受け入れるのは大変でしたが、ベニーは自分自身を彼女に証明し、セレーナも彼の理想とモラルを高く評価しています。長い間、恋愛関係においてできなかった、又はそうしたくなかった心の一部を、彼女は彼に捧げられると感じているのです」「セレーナはやっといい人を見つけたと感じていますし、彼女にとってそれはとても新鮮なことです」

マグミクス 40K フォロワー 『ガンダム』アムロはフィジカルオバケ! 身体能力のとんでもない高さ示す描写の数々 早川清一朗 の意見 • 49 分 • 読み終わるまで 3 分

アムロは意外にフィジカル派

 アニメ『機動戦士ガンダム』の主人公「アムロ・レイ」は、初陣でモビルスーツ(MS)「ガンダム」をマニュアル片手に動かせるほどメカに詳しく、次々と襲い来るエースパイロットを退け、後にニュータイプに覚醒したキャラクター……といったところが、おおむね一般的な認識かと思われます。特に初期のアムロからは、どちらかといえばマニア気質のインドア派のような印象を受けるかもしれません。しかしその劇中において、実は身体能力もかなり高い描写が見られます。

【画像】スタイルもビジュアルも抜群! サービスシーンを大胆披露した「ガンダム美女&美少女」(7枚)

 アムロの身体能力が最も重要な役割を果たしたのは、最終回「脱出」でライバルの「シャア・アズナブル」と剣を交えたシーンでしょう。体を使う技はニュータイプでも鍛えなければいけません。そこに勝機を見出した職業軍人のシャアに対し、アムロはむしろ優勢に戦っています。

 そもそもガンダム自体が戦闘兵器のため、鍛え上げた軍人の搭乗が前提条件のはずです。アムロが初めてガンダムに乗り込み、ジオン公国軍パイロット「ジーン」の操縦するMS「ザクII」を撃破した際には、宙を舞って「ビームサーベル」で胴部を叩き切りました。それなりにG(加速度)や着地時の衝撃を受けた状態で、即座に2機目となる、同じくジオン公国軍パイロット「デニム」が搭乗するザクIIコクピットを貫いたことからも、戦闘センスの高さが見て取れます。内向的でメカいじりばかりしているといわれていたアムロですが、元々、何か対戦型スポーツの経験があるのかもしれません。

 第16話「セイラ出撃」では、アムロおよびガンダムの母艦「ホワイトベース」のクルーである「セイラ・マス」が独断でガンダムに乗り込み、カタパルトから射出される際のGの凄さに苦しんで吐き気を催したような描写があります。このときセイラはパイロット用ノーマルスーツを着用していなかったため、余計に身体に負荷がかかった可能性はあるものの、単なるカタパルト射出の場合、アムロは「ううっ!」とうめき声を漏らす程度で極端に苦しんだ描写は見当たりません。

 アムロがGに苦しんだシーンとなると、第7話「コア・ファイター脱出せよ」にて、ジオン軍の包囲網を突破し味方と連絡を取ろうとして小型戦闘機「コア・ファイター」を弾道軌道で射出した際に失神した例と、第31話「ザンジバル追撃!」で敵モビルアーマー「ビグロ」にガンダムの機体を引っ掛けられた際に、やはり失神した例があるのみで、いずれも極端なGのかかったケースです。男女の肉体の違いはあれど、やはりアムロの肉体は強いと思われます。

着衣のまま荒れた海にて人命救助!

逆襲のシャア』の頃のアラサーアムロはすっかり職業軍人。「GGG 機動戦士ガンダム 逆襲のシャア アムロ・レイ」(メガハウス) (C)創通・サンライズ© マグミクス 提供

 また、後続の作品では、アムロのフィジカルの強さがより強調されるようなシーンも見られました。

 TVアニメ『機動戦士Zガンダム』第18話「とらわれたミライ」では、地球連邦軍ベン・ウッダー大尉に人質としてとらわれたアムロが、MS戦の混乱に乗じて脱出を試みます。このシーンで見せた身体能力は恐るべきものがありました。

 海上艦艇の甲板にて後ろ手に縛られたアムロは、ほかの軍人が戦闘で発生した波でバランスを崩す中、左後ろ蹴りでひとりを倒し、そのまま海へ飛び込みます。着衣の上に靴を履き、手が自由にならない状況で、さらに銃撃されるなかを泳いで逃げ切り、味方ボートにたどり着いたアムロは、即座に手を縛るロープを切ってもらい、水中へ投げ出された子供の救助に向かったのでした。このとき救助したのが、のちに映画『閃光のハサウェイ』で主人公を務める、子供時代の「ハサウェイ・ノア」です。

 着衣と靴は水泳の天敵ともいえる存在です。水を吸った服は体に重くまとわりつき、靴は水を掻く力を大きく奪います。自分ひとりが助かるかもわからない状況下で海中のハサウェイを救い上げた身体能力は、もはやフィジカル面でもニュータイプといえるようなレベルでしょう。

 劇場版『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』でのアムロも、フィジカルの強さを見せつけています。

 サイド1のコロニー「ロンデニオン」で休養していたアムロは、地球連邦政府との和平交渉を終えたシャアと遭遇しもみ合いとなります。このときアムロは組み伏せられながらも、いわゆる巴投げでシャアを3mから4mほど投げ飛ばしています。シャアがすぐ起き上がって反撃してきたことから見て、地球上と比べ重力が大きくない可能性もあるとはいえ、それでも尋常ではない距離です。軍人として鍛えていることもあるでしょうが、やはりアムロはフィジカル的にもかなり優れた能力を持っているのは間違いないでしょう。

(早川清一朗)

毎日新聞 193.9K フォロワー 原田雅彦さん「力強い励まし、忘れない」 笠谷幸生さん死去 毎日新聞 によるストーリー • 16 時間

長野五輪スキー・ジャンプ団体金メダリスト、原田雅彦さん=2021年3月27日、佐々木順一撮影© 毎日新聞 提供

 1972年札幌冬季オリンピックのスキー・ジャンプ70メートル級(現ノーマルヒル)金メダリストの笠谷幸生さんが亡くなった。全日本スキー連盟副会長で98年長野五輪スキー・ジャンプ団体金メダルの原田雅彦さんは「突然の訃報を聞き、悲しい思いでいっぱいです」とコメントした。

 原田さんのコメントは次の通り。

 笠谷さんは札幌オリンピック金メダリストとして、もちろん憧れの選手でしたが、私は指導者となられてから大変お世話になりました。

 常に寄り添い、たくさんのことを教えていただき、私が途方に暮れた時も、力強く励ましてくれたこと、今でも忘れません。

 そのおかげで自信を持ち、ジャンプ選手として成長できたと思っています。

 スキー連盟やJOC日本オリンピック委員会)理事などの時も、オリンピックのたび、ジャンプを助けていただき、長野では世界一へと導いてくれました。

 本当にありがとうございました。心から感謝し、尊敬しています。

 
 

CHANTO web 18.5K フォロワー 坂本冬美(57)デビュー15年で突然休業の真相「本当は引退するつもりだった」決意をひるがえした恩師の「歌声」 20 時間 • 読み終わるまで 6 分

19歳でのデビュー以来、演歌歌手として華やかなキャリアを歩んできた坂本冬美さんですが、2002年に1年間、芸能活動を休業。その背景には、大切な人の死がありました。当時はその死を受け入れ、自分の心をゆっくりと癒やす時間が必要だったといいます。

あまりにも突然だった父の死「どんな言葉も耳に届かなかった」

坂本冬美さん© CHANTO web 提供

人生のどん底を乗り越えた2005年頃の坂本さん

── 休業された当時の状況を伺ってもいいでしょうか?

坂本さん:デビュー11年目の1997年に、父が交通事故で亡くなったんです。釣りに行くと言って出かけたまま、車ごと海に消えてしまいました。あまりに突然の別れに、やり場のない悲しみが押し寄せ、周囲の慰めや励ましの言葉もいっさい耳に届かない状態でした。

とはいえ、3年先までスケジュールがぎっしり詰まっていたので、休むわけにはいきません。なんとか気持ちを奮い立たせてステージに立っていたものの、父の死を受け入れることができていない状態で人生の応援歌を歌うことが苦しくなってしまったんです。

愛する人を突然亡くすということは、時が解決してくれる部分もありますが、やはり、悲しみや苦しみといったものは、ずっとどこかで引きずってしまうものだと思うんです。父を亡くして寂しそうな母をひとりで置いておくのも心苦しく、時間の許す限り、実家に戻っていましたね。

坂本冬美さんとお母さん© CHANTO web 提供

最愛のお母さまと

── ご自身の半生を描いた漫画のなかで、ご実家に心ない電話がかかってきた場面が描かれていましたね。読んでいて胸が苦しくなりました。

坂本さん:やっぱりこういう仕事をしていると、なかには、私に対して反感を持つ方もいらっしゃるのでしょうね。父を亡くして実家に戻っていたときに、知らない番号から電話がかかってきて、「ざまあみろ」と、言われたことがありました。

── 胸をえぐるような言葉ですね…。

坂本さん:さすがにこたえました。張り詰めていた糸がプツリと切れてしまった感じでしたね。たまたま私が電話を受けたからまだよかったものの、母が取っていたらと思うと…ゾッとします。

そのとき初めて、「芸能界で活動をしていると、知らないうちに人から嫌われたり、憎しみをぶつけられてしまうこともあるんだな」と痛感して。次第に身も心も疲弊していって事務所と相談し、決まっていたスケジュールをすべて済ませてから休業することに決めました。

2002年3月29日、最後のコンサートを終えた翌日、美容室へ飛び込み、「髪を結えないようにバッサリ切ってください!」と断髪式をしたんです。

── トレードマークだった長い髪をバッサリ切って、日本髪を結えないようにするとは、強い決意と覚悟を感じます。

坂本さん:じつは、芸能界に戻るつもりはなく、そのまま引退しようと考えていたんです。周りには、「せっかくここまでやってきたのにもったいない」と言われ、先輩方も心配してくださいましたが、自分のなかでは、もう限界でした。

髪を切ってショートカットにしたときは、肩の荷が下りてホッとしました。解放されたような気持ちでしたね。

2002年に休業も重病説に極秘出産説、死亡説まで飛び出して

── 突然の休業宣言に、いろんな憶測が飛び交いました。重病説や極秘出産、なかには死亡説を報じるメディアまで…。どんなふうにごらんになっていましたか?

坂本さん:そりゃあビックリしましたよ。「え!? 私、死んだ?いや、ここにいるんだけど?」って。極秘出産説はなぜか今でも根強くささかれているみたいですけど(笑)。残念ながら子どもはいませんが、もしいたら、どんなに嬉しいだろうと思いますね。

いろんな報道が出て、戸惑いはしましたが、怒りの感情はなかったです。逆に「ありがたいなあ」と感じていました。

── なぜでしょう?むしろメディア嫌いになってもおかしくない状況だと思うのですが。

坂本さん:そもそも私があいまいな状態で舞台から去ったから、皆さんをモヤモヤさせてしまい、その結果、いろんな憶測を呼んでしまったわけです。

それまで、「たかが15年間しか活動していない歌手のことなんて、みんなすぐに忘れてしまうだろうし、自分はその程度だろう」と考えていたけれど、私がいなくなっても、こうして話題に取り上げてもらえるということは、世間の皆さんから、ちゃんと歌手として認められていたんだなと思ったんですよね。

休業中に聴いた『岩壁の母』に衝撃を受けて

── 休業中は、どんなふうに過ごされていたのですか?

坂本さん:実家に戻り、母とゆったりと過ごしました。猪俣公章先生のお知り合いのご夫婦と一緒にアメリカにも行きましたね。グランドキャニオンでは、雄大大自然に圧倒され、自分の悩みがちっぽけに感じられて。そんなふうにして過ごしているうちに、少しずつ気持ちが癒えていきました。

坂本冬美さん© CHANTO web 提供

グランドキャニオンをバッグに

──「一時は引退も考えていた」という坂本さんが、ふたたび歌と向き合う決意をされたのは、なぜだったのでしょう?

坂本さん:実家でテレビを見ていたとき、歌手の二葉百合子さんが、芸能生活65周年のリサイタルで『岸壁の母』を歌っていらしたのですが、それが胸に突き刺さるような力強い歌声で。凛としたその姿に胸を打たれたんです。何十年も歌い続けている『岸壁の母』は、ものすごく説得力がありました。それに比べ、たかだか15年でギブアップしている自分はなんて情けないんだろうと。

── いったんマイクを置いたものの、ご自分のなかで、「歌いたい」という気持ちが再燃したのでしょうか。

坂本さん:きっと「もう歌いたくない」という気持ちと「歌が大好き」という気持ちで、揺れ動いていたのでしょうね。なにせ子どものころから私には歌しかありませんでしたから。

「二葉先生のもとで修業させていただき、出直すことができたなら…」。そう思って、先生に手紙を書いたのですが、実際にポストに投函するまでは、かなりためらいました。

坂本冬美さんと二葉百合子さん© CHANTO web 提供

今年3月、恩師・二葉百合子さんと成田山新勝寺にお参りへ

── それはなぜでしょう?

坂本さん:歌を再開するということは、いったん降りた舞台にまた上がるということになります。とはいえ、まだそこまで心の準備が追いついていない自分もいました。ですから、「本当に歌えるの?またステージに立てる?」と自問自答を繰り返しましたね。

ずっと歌うことへの怖さがありました。デビュー以来、自分の歌に自信が持てず、つねにコンプレックスがあったんです。基礎からきちんと習ってきたわけではないし、喉も強くない。「他の人は朝からあんなに声が出るのに、私はなぜ出ないのだろう」と人と比べて悩んだこともありました。

── ご自分の歌にコンプレックスを持っていらしたとは、意外です。

坂本さん:ずっとコンサートをやってきて、自分の声帯のことはよくわかっていますから。コンサートでも3日以上はきつかったり、声の出づらい日があったりと、不安定な面があったんです。

二葉先生は、そんな私を「歌の壁にぶつかったのね。それは成長の証よ」と励ましてくださいました。うまく歌おう、聴かせようとするのではなく、つねに同じ気持ちで心をこめて丁寧に歌うことが大切よと。

しばらくお稽古に通ううちに、自分のなかで「よし!」という手ごたえを掴むことができたんです。

── どんな感覚だったのでしょうか?

坂本さん:自分の『夜桜お七』のCDに合わせて歌ったときに、一番高い音域が「当たる」感覚があったんです。ちゃんとした音が出せたので、「あ、これならいけるかもしれない」と思いました。それまでステージに立つ自信を取り戻せるか不安だったので、お稽古に通っていることは、誰にも内緒にしていたんです。

二葉先生という素晴らしい恩師に恵まれ、ようやく復帰に向けて歩き始めることができ、本当に感謝しています。

PROFILE 坂本冬美さん

さかもと・ふゆみ。1967年生まれ。和歌山県出身。1987年、19歳のときに「あばれ太鼓」でデビュー。『祝い酒』『夜桜お七』『また君に恋してる』など、数々のヒット曲を持つ。91年には細野晴臣忌野清志郎とHISを結成するなど、ジャンルを超えて活動。2024年2月に「ほろ酔い満月」をリリース。

取材・文/西尾英子 写真提供/坂本冬美