「信長の野望」のシブサワ・コウ、家業再興失敗にめげず「分不相応な夢」追求…次は幕末テーマに世界へ

襟川陽一氏© 読売新聞

コーエーテクモホールディングス社長 襟川陽一氏 73

 ゲームソフト大手のコーエーテクモホールディングスは、世界一のデジタルエンターテインメント会社になるとの野望を抱く。40年以上、新しい面白さを追求してきた襟川陽一社長に聞いた。(聞き手・小川直樹、写真・鈴木竜三)

<27歳の時、実家の染料工業薬品販売会社が倒産した>

 実家の取引先だった専門商社で営業をしていたのですが、父から急に「帰ってこい」と連絡がありました。

 帰ってみたら、大口取引先の倒産で資金繰りが大変な状況になっていました。立て直しをずいぶん手伝ったんですが、時すでに遅しで、戻って3か月で倒産しました。

 半年ほど会社の残務整理をして、さて何をしようかと考えました。その時、親戚や取引先から「再起するなら応援するよ」という声をたくさんいただいて、やってみようという気持ちにだんだんなっていったんですね。

 今考えると無謀な賭けでした。会社を経営したこともないし、当時の繊維産業は非常に厳しい状況でした。でも自分ならうまくできるんじゃないかという、根拠が何もない、家業再興の野望でした。

<1978年に実家と同業の「光栄」を設立した。だが、業績は上向かなかった>

 自分は経営の才覚がないんじゃないかと思って、本屋さんに行って松下幸之助ドラッカーの本を買ってきて勉強していたんです。

 当時本屋さんに平積みになっていたのが「月刊マイコン」などのパソコン専門誌でした。手に取ると「これからはパソコンの時代だ」「経営合理化に役立つ」と夢みたいなことがたくさん書いてある。小学生の時から鉱石ラジオを作ったり電気工作が好きだったので、もう欲しくて欲しくて。そういう話を日頃家内にしていたら、30歳の誕生日にプレゼントしてくれました。

 プログラミングは独学です。すごく相性が良くて今の言葉で言うとハマったと。もうプログラムを作るのが楽しくて楽しくて。財務や在庫管理、見積もり計算のソフトを作って会社経営に役立たせました。そのうち代わりに作ってくれないかと外部から注文を受けるようになりました。

 それも楽しかったんですけど、もっと楽しかったのが、夜や休日に自分でゲームを作って遊ぶことでした。

 何本か作ったもののうち、81年に作った「川中島の合戦」は将棋のように考えて楽しむゲームでした。当時は「スペースインベーダー」や「パックマン」など反射神経を競うゲームが人気でしたが、ひょっとしたら歴史が好きで、パソコンを持っていて、こういうゲームが好きな人がいるかもしれない。そう思って試しに月刊マイコンに白黒半ページの広告を出して通信販売をやってみたんです。

 10本か20本売れればいいと思っていたら、いっぱい注文がきてびっくりして。1万本くらい売れたんですよ。自分が楽しむために作ったゲームを楽しいと言ってくださる手紙や電話をたくさんいただいたんです。それが本当にうれしくて。2本目、3本目のゲームを作るとまた反響があって仕事の醍醐(だいご)味を感じ、やりがいになっていきました。それで転業してゲーム開発専業にしました。

<戦国時代が舞台の歴史シミュレーションゲーム信長の野望」を83年に発売した>

 司馬遼太郎さんの小説「国盗(と)り物語」を読んで織田信長の生き方に魅力を感じていました。「次は信長で」というファンのニーズもありましたから、信長を主人公にしたゲームを作ろうと。

 私は当時、営業から採用、財務、在庫管理といろいろなことをやっていました。戦国大名もただ戦いに明け暮れていたわけではなく、内政や外交もやっていたわけです。そこで信長がやっていたであろうことを列挙して、ゲームとして面白くなりそうな要素を取り入れ、信長の人生を疑似体験して楽しめるようにしました。それが切り口として非常に面白いと評判になり、大ヒットしました。

<この時からゲームのプロデューサーとして「シブサワ・コウ」を名乗った>

 これは家内のアイデアです。ファッション業界では商品を出す時に責任ある立場の人の名前を出すのは当たり前で、それで品質をイメージできるようになると。ゲームにも必要だと提案がありました。ゲーム業界では初めてのことでしたが、プロデューサー名を作るんだったら絶対尊敬する渋沢栄一だと。それと社名の光栄から取って「シブサワ・コウ」としたんです。

 歴史シミュレーションゲームは「三國志」などたくさん作ってきましたが、自分がもし信長だったら、本能寺で明智光秀を返り討ちにするといった「歴史のイフ」が楽しめます。

 「信長の野望」は初代の発売から41年たちました。最新の技術を活用して今までできなかった新しい面白さを体験してもらう。そうすることによってシリーズ作がどんどんつながり、今は16代目です。累計販売は1000万本を突破しました。

<2009年に海外市場に強い同業のテクモ経営統合。経営ビジョンに「世界No.1のデジタルエンタテインメントカンパニー」を掲げる>

 東洋や日本の歴史・文化をテーマにしたゲームを世界に発信していくのが当社の特徴で、他社にはなかなかできない強みだと思っています。

 テクモとの経営統合の相乗効果で、シリーズ累計700万本を超える世界的なヒットとなった「仁王」に続いて、3月には幕末の日本を舞台にしたアクションゲーム「ライズオブローニン」を世界同時発売しました。コーエーの歴史ゲームの知見とテクモのアクションゲームのノウハウを融合させました。「AAA作品」と呼ばれる大ヒットゲームになることを目指しています。世界のゲームファンに楽しんでいただきたいと思います。

 1980年代と90年代は信長のようにリーダーシップを発揮して引っ張ってきました。休みなしで夜遅くまで好きなゲーム開発をしていました。2000年ぐらいから全部自分でやるのは体力的に難しくなりました。医者からも止められ、開発は若く優秀な社員に任せて承認する形にだんだん変えてきました。人は城、人は石垣。武田信玄です。

 光栄を設立した時の私の夢、家業再興は無残なものになりましたが、チャレンジしたことによって今のゲーム開発にたどりつきました。分不相応な夢や希望であっても持ち続けると、新しい道が開けてくる。私の場合、経営がうまくいかなくて本を買いに行ったら、たまたまそこにパソコン誌があった。何がどうつながるかわからないんです。

 自分の経験から一つはっきり言えることは、野望を持て、ですね。

■〈NUMBERS〉400億円

 2024年度が最終年度の中期経営計画で、売上高1000億円、営業利益を400億円、経常利益500億円を目標に掲げる。特に重視しているのが営業利益。コーエーテクモホールディングスの調べによると、22年時点の業界内の順位は世界17位という。

~襟川さんを知るもう一つのキーワード~ 初めてのパソコン…初めて手にしたパソコンはシャープの「MZ―80C」で初任給が10万円前後の時代に定価は26万8000円もした。妻の襟川恵子コーエーテクモホールディングス会長が株式投資で稼いだお金でプレゼントしてくれた。「これがなかったら今の私は存在しなかった」と、今も執務室に大切に飾っている。

 ◇襟川陽一(えりかわ・よういち) 1950年栃木県生まれ。73年慶大商卒、専門商社などを経て、78年に染料工業薬品卸業の光栄(現コーエーテクモゲームス)を設立。82年にゲームソフト開発に転業した。2009年に同業のテクモ経営統合し、10年から現職。シブサワ・コウの名でゼネラルプロデューサーも兼ねる。